人は「神の子」でもあり「罪の子」にもなる

キリスト教では、人間とは「神の子」でもあり「罪の子」にもなると説かれているように思われます。
これは、神の心をもった自分を中心として捉えると「神の子」になり、業やカルマ、目先の欲望に囚われている
自分を中心に捉えると「罪の子」になるという意味ではないでしょうか。
また、キリスト教は、人間は原罪を持って生まれ、イエス・キリストを信じる者は罪の赦しを得て救われる、という教義になっています。

ここでいうイエス・キリストとは、肉体を持ったイエスではなく、
真理であり、神であり、法則であり、愛であると捉え、それは真我そのもののことを指していると考えています。

新約聖書に
「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せ」という内容があります。
人の頬を叩くということは、その人によほど憎い感情があるということですが、
ということは、一回叩いたくらいではその人の気持ちは解消されていません。
そこで、「もっとわだかまりはないですか?どうぞ完全に解消してください」という意味でさらに相手に殴らせるということを示しているようです。

相手には業があり、自分にも相手の業を引きつける業があるのですが、
相手の業と自分の業を消すためにもう一回殴られるくらいがちょうどいいということを伝えていると、私は捉えています。

さらに、殴った相手に対して被害者意識を持ってしまうと、今度は相手に罪の意識が残る可能性が考えられます。
そのときに、「ありがとうございます。本当に勉強になりました」と言えば、相手はもう業を背負わなくなります。
悲観的な捉え方をしてしまうとお互いに業が残ってしまうと思われます。

私は、真我こそが本当の聖書であり、本物の仏典だと思っています。
聖書や仏典は、真理を学ぶための書物であるに過ぎないのです。
ですから、本物は書物にあるのではなく、
「それを学んで追求する」という心の方が大切なのです。
つまり、すべては私たち自身の中にあるのです。

また聖書や仏典は、それを書き記した人の主観や時代によって内容が違ってきます。
また中国思想に、性善説と性悪説という二つの相反する考え方がありますが、
性善説とは、人間の奥には真我があるということが説かれていると思われます。

それに対して、性悪説は、業を指しており、キリスト教で「人はみな罪人である」というのも、やはり業のことだと考えられます。
「罪を憎んで人を憎まず」というのは、過去の業を憎んで真我のことを憎む必要がないという意味です。
罪人というのは、神の意に沿わない行動をする人のことであり、宇宙の法則に沿って生きれば、誰もが「神の子」になれるということです。

私たちは、脳で物事を考えることを一番にして生きてしまいますが、その脳自体を作ったのは誰なのかを今一度考えてみるべきです。
その観点から捉えて生きるようにすると、私たちは「神の子」に近づいていくはずです。
しかし、現代人の多くは、人間の脳で考えたことを一番正しく偉大なことだと思い込んでいます。
そういう人たちのことを宇宙から見ると罪人といえるのではないでしょうか。
その意味では「人はみな罪人である」という言葉は真実でもあるといえるのです。
人間は神の意に沿うこともできますし、神の意を無視して自分の考えで動くこともできます。
すなわち、人間は「神の子」であると同時に「罪の子」でもあるのです。
かといって二重の存在というわけではありません。

人間は、本来は神であり、本当はすべて「神の子」でしかないからです。

このページの先頭へ