障害という財産2013/12/05

先天性障害者として生まれてきた子供がいます。
例えば、生まれつき手や足がない、あるいは脳性麻痺などの重大な障害を背負っている人が少なくありません。
古来、宗教では先天性の障害を、因縁や業が深い、ということで片付けています。
障害を背負っている人に対して業が深いとか、因縁が深いという言い方をする人は、全然心のことがわかっていないのです。
駄目な人に百回、駄目なんだと聞かせたら、いったいどうなるというのだろうか。
ますます落ち込んで駄目になってしまうかもしれないのです。

心というのは、思った分量だけ増えるのです。
だから、相手から「駄目」といわれたら、「駄目」という思いがますます増えます。
ということは、ますます業も増える、ということなのです。
しかし、それはあくまでも心の世界でしかない。
その奥の魂、つまり、本当の自分(=真我)に目覚めたときに、
人間は完全な宇宙そのものであり、愛そのものであり、神そのものであることを自覚することができるのです。
それを自覚すると、因縁や業などというものは、とたんに消えてしまうのです。
たとえ生まれつき腕が曲がっていようと体がどうなっていようと、魂の奥から物事を見たら、たいした問題ではなくなってしまうのです。

そこからが出発なのです。
どんな人だって、オギャーと生まれたときに既にそれぞれの性格を持っています。
赤ちゃんでも性格はあるのだから、真っ白ではないのです。
それと同じと思えばよいのです。腕がどうなっていようとも、目が見えなくとも同じだと思えばよいのです。
そこからが出発、それを土台としてどう考えるかのほうが大切なことなのです。

まずは、「真我」つまり、本当の自分に目覚める。
そしてもう一つ重要なのが、「今が出発である、与えられている現状がスタートラインです」と考えることです。
生まれ落ちたとき、金持ちであろうが、貧乏であろうが、障害者であろうが、「これが最高の出発なのだ」と自覚することが大切なのです。

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