本来は誰も原罪などはもっていない

キリスト教で説かれている原罪とは業・カルマのことです。
ですから、業・カルマのない人のことをイエス・キリストといってもいいのです。
たまたまその時代にはイエスしかいなかったので、イエスだけが神の子だといっていると思われます。
しかし、宇宙の法則だけが真実ですから、本来は誰も原罪などはもっていないのです。
本当は全員がイエス・キリストだといってもいいのです。
あなたも大切な神の子なのです。

脳を使うことが原罪なのではありません。
私たちは脳を使わないで生きることは不可能です。
神の意に沿った脳の使い方をすれば、それは原罪ではないのです。
神の意に沿って知恵を使うことは大いに良いことです。

例えば、ある先生の所に弟子入りをしたのに、その先生の教えを無視して自己流にやったら罪です。
先生の意に沿って学んだら、そういう人が本当の一番弟子になります。
人間の原罪とは、目先の欲望を中心とした自己流の知恵をいうのです。
知恵そのものが罪なのではありません。
神の知恵ならば、それは罪ではありません。
人間の浅知恵が罪なのです。

イエスが存在した時代には、イエスしか業・カルマを持っていない人はいなかったということなのでしょう。
しかし、これからは、全員が真我に目覚め、カルマをなくしていけば、イエス・キリストのような神の子になれるのです。
そして、一早く神の子になれた人が精神世界のリーダーになるのです。
原罪を持っている人と持っていない人が議論をしても始まりません。
原罪を持っている人は、原罪を持っていないリーダーの意に100パーセント沿わなければならないのです。
そうしなければ、いくら議論を重ねようとも、原罪を消すことは永久に不可能なのです。
イエス・キリストが真理であるならば、「最後の審判」のときがくるというキリスト教の理論も間違いではないでしょう。
人類がこのまま真理に反して生活していたら、やがてはそれだけの酬いを受けることになるはずです。

その最後の審判の時期が、近づいているのは事実です。
それは、地球温暖化といった環境問題、戦争、病気などあらゆる問題が地球規模で起きています。
最後の審判のときが来るというのは、これらの問題が拡大し、人類が地球上に住めなくなるときがくるということを指しているのです。

今人類は、自分たちの脳で考えたことを一番にして行動していますから、宇宙の法則にも地球の意にも沿っていません。
すると、最後には宇宙の法則によって裁かれるときがやって来るということです。
しかし、そのなかでも法則に沿って生きてきた人だけが、ノアの箱舟によって救われるということになります。
人間が宇宙の法則を無視して目先の要望で考えた結果、残るものは罪の報いです。
神の意に沿っていたら、そのような結果にはならないでしょう。
業・カルマをたくさん背負っている人がいわゆる地獄行きの人たちであり、
時間の経過とともに業・カルマがなくなっていく人は、天国に向かっているのです。

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