悟りの手法は発展が見られなかった~昔の聖者たちは座禅(瞑想)をさせた2013/10/04

昔の聖者たちは、悟りを開かせるためにひたすら座禅を組ませました。
それが悟りを開く一番の早道だと考えていたわけです。

今もなお、座禅に取り組んでいる人はたくさんいます。
しかし、現実に座禅を組んで一体どれだけの人が悟りを開いたと言えるでしょうか?
現実を見た時に、まだまだ座禅と言う古来の方法は、悟りを開くためには不完全だと言わざるを得ません。
何が欠けているかと一言で言うならば、その手法に進歩がないということです。
大昔のやり方をいまだに忠実に継承しているのです。

科学の世界がこれだけ進化しているのに比べ、なぜ精神世界が遅々として進化してこなかったのでしょうか。
教えるべき立場の人々が、知恵を絞るということを怠ってきたのではないかと思うくらいです。
本当は、悟りの追求に対しても、時代とともに進化して然るべきです。
もっと自由に考えるべきだと思います。

ちょうどそれは、東京から九州まで行くのに、「蒸気機関車で良い」といつまでも言っているようなものです。
特急電車ができて、新幹線ができて、飛行機ができていったように、精神の分野もどんどん進化していいはずなのです。
私は悟りの世界も、科学と同じように捉えています。
今私がやっている方法が今のところ最も早くて効果的な方法だと思っているから今の方法でやっているのですが、
さらに早くて効果的な方法があれば、そちらをすぐに実行するでしょう。
またそうあるべきだと思うのです。
座禅以外に悟りを開くための方法として、山に篭ったり、断食をしたり、滝に打たれたりといった難行苦行があります。
そういった難行苦行をすることによって、頭をはずさせようという狙いがあるのです。
確かにそれも一つの方法ではあるのです。

しかし、私は生命の悟りを得るのに、そんなに難しい修行をする必要はないとのです。
もっと軽やかに悟りを開くことはできます。
なぜ、心臓が動いているということを悟るのに、そんな難行が必要なのでしょうか?
修行して心臓を動かすのではありません。
心臓はもともと動いているのです。
道元も「全てが仏であるなら、この自分もまた仏であり、すでに自分が仏そのものであるなら
修行によって仏になると言うことはないはずだ。ならば、なぜ修行する必要があるのか」と言っています。
その通りなのです。

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