生命のプログラムとは、
「宇宙全体の命と、地球の命と、すべての命がひとつである
ということを、頭で理解するのではなくて、魂で悟ることです」
人間は記憶でできています。
オギャッと生まれた瞬間に、前世の記憶と、遺伝子の記憶と、折り重なって生まれてきます。
そして、生まれてからこれまでの記憶を細胞は何一つ忘れていない。
この3つの記憶、前世と遺伝子と、オギャッと生まれてからの細胞の記憶。
人間は、記憶の塊なのです。
前世の記憶、遺伝子の記憶、そしてオギャッと生まれてからの記憶、
だいたい割合でいくとどれぐらいだと思いますか?
前世と遺伝子の記憶で90パーセントです。
生まれてからの記憶はたった10パーセントなのです。
遺伝子、前世で90パーセントを占めるといわれている記憶を変えていく、
それが「生命プログラム」です。
私のやっていることなのです。
これをできる人は誰もいないのです。
無限の愛は無差別の愛です。
そして無条件の愛です。
イエスキリストは次のように述べています。
「私よりも、父や母を愛する者は私にふさわしくありません。
そして私よりも息子や娘を愛する者は私にふさわしくありません。」(マタイ10・37)
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5・44-5)
イエスは、両親や子供を愛してはならず、逆に敵を愛しなさいといっています。
イエスはこう表現することで、有限の愛と、無限の愛の異質性を強調しているように思います。
すなわち、無限の愛、神の愛とは、決して情愛の延長ではないということです。
親や子供に対する愛情を他人に対する愛に拡大したものが、人間が目指すべき無限の愛の世界ではないのです。
イエスキリストの思想は、その点でいわゆる博愛主義とは異なります。
逆にいえば、無限の愛は、情愛という有限の愛を増幅することで到達できるものでは決してなく、
真我の自覚によってのみ現実化できるものなのです。
無限の愛は与える無償の愛であり、執着の愛は引き寄せる執着の愛で、まったく正反対のものですから当然のことです。
無限の愛は、愛の光です。
それも世界全体をあまねく照らす光です。
先ほどのイエスの言葉においても太陽の例が用いられていました。
仏教においても、阿弥陀仏の阿弥陀が無限の光、無量光を意味するように、無限の愛は光として表現されてきました。
闇は光によって消えます。
それと同様に、愛の光は私たちの苦悩を完全に消し去り、永遠の幸福をもたらすのです。