よくこういう質問を受けます。
「神は完全であり、調和であり、一点の曇りもないのに、なぜ人間はこんなに苦しまなければいけないんでしょうか?」と。
私たちが見たり感じたりするものは、全て相対的なものです。
相対がなければ、時間も空間もなく、何も認識することも感じることもできません。
しかし、神そのものには相対がありません。
神にとって唯一の相対は、私たちの業、即ち人間の心だけなのです。
私たちに相対が存在することによって、私たちは神の素晴らしさを認識することができるのです。
もし、神だけで相対が存在しなかったら、神の素晴らしささえも私たちは認識できないのです。
料理にも美味しいものとそうではないものが存在するから、美味さを認識できるのです。
苦しいことを経験するからこそ、本当の喜びも味わえるのです。
病気を経験してこそ、健康の有難味がわかるのです。
私たちの意識は絶対ではないが故に、この三次元の世界の中で様々な体験をし、様々な感覚を味わうことができるのです。
本来、業などはどこにも存在しません。
しかし、私たちには過去の記憶が業として残っています。
神が創ったままの記憶と、私たちが体験した記憶とが唯一相対になっているのです。
意識が神そのものになったら、もう相対はなくなります。
そして、業もなくなります。
ところが、業の中で生きている限りは、神と業の二つの記憶がいつまでも併存するのです。