苦しみの原因は執着心

世の中は、常に変化しています。
ですから、明日、自分の財産を失うことになるかもしれませんし、愛する人と別れることがあるかもしれません。
自分の美貌を一生保ちたいと思っても、歳とともにしわが増えてしまいます。
真実がわからなければ、その過程がすべて苦しみになってしまうのです。
世の中は無常なのです。

ですから、自分が大切だと思っているものを、永久に持ち続けることは、何一つとしてできません。
この無常である世界で、人間を絶え間なく苦しめているのは執着心です。
「どうしてもこれだけは、持っていたい。どうしてもアイツだけは許せない。
どうしても納得ができない」という一種の価値観やこだわりです。
私たちは、自分が大切だと思うものを握っていることが幸せだと思ってしまいますが、それは大きな錯覚なのです。

いずれはどんなものでも手放さなければならないのです。
最後は命さえも手放さなければなりません。
死んでしまったら、たとえ巨万の富を持っていたとしても置いていかなくてはなりません。
実は、執着心こそが苦しみを誕生させるのです。
執着心が強ければ強いほど、苦しみの人生を歩まなければなりません。
人は自分の手から手放さなければならないという苦しみからは、なかなか逃れられないのです。

しかし、自分で執着を手放すことができれば、苦しみは消えていきます。
人から無理やり奪い取られると苦しくなりますが、自分が手放せば苦しみはなくなるのです。
そして、本当の自分である真我を体感したときに、現世の快楽ではなく、本物の喜びを得ることができるのです。
真我に目覚めれば、苦しみから自動的に逃れることができるのです。
ただ、「執着を手放しなさい」と言われても、私たちはなかなか手放すことができません。
それは、みんな自分のことを愛しているからです。
しかし、今自分が握り締めているものよりも、明らかに素晴らしく価値があるものを見せられれば、
自然と握っているものを手放すことができるのです。

私たち人類は、みな愛を求めています。
なぜ愛を求めるのでしょうか。
それは、私たちがみな究極の愛を潜在的に知っているからです。
お金を求めるのも、仕事に没頭するのも、酒に溺れるのも、全部「愛が欲しい」という願いから発している行為なのです。
私たちが必死で追いかけているものは、すべて愛の代用品なのです。
私たちが究極的に求めているものは、突き詰めてみると、神の愛以外にはないのです。
自分が求め続けてきたお金やものを手にすることできたとしても、それだけでは心が満たされなくなります。
やがて、別の何かが欲しくなるのです。
常に「私が欲しいものはこれではない。何かが違う」と考え、真剣に真実を求め始めます。
「これも違う、これも違う……」と消去法で探し求めていきます。
そのような人たちが、私の所にたくさんやって来ます。

過去の宗教家の多くは、何か課題を与えて説教をしてきました。
例えば「今あなたの心は、満たされていませんね。
それを解決するには、この教えを学びなさい」
というような導き方をしてきたように思えます。

しかし、私はまったく別の方法を行っています。
それは相手にとって、より価値があるものを見せ続けるのです。
そのことによって、「今まで、大事にもっていたものは、たいしたことがなかったのだ!」と気付かせてあげるのです。
料理に例えるならば「もっと美味しいものがあるよ」と言って実際に食べてもらい、
「あれ? こっちのほうが美味しいんだ!」と自分で気づいてもらう方法です。
苦しみの原因は執着心であるのだから、それを手放すことが解決につながります。

しかし、みんな自分を愛しているから、なかなかそうは簡単に手放すことができません。
手放すための最良の方法は、今握り締めているものよりも、価値のあるものを知ることです。
例えば、小銭を握っている人から、その小銭を手放させる方法は、100万円の札束を与えてあげることです。
そうしたら、小銭を手放して札束を手にすることでしょう。
一方的に「手放せ」と言ったら相手も抵抗しますが、より良きものを見せられれば、相手も抵抗しません。
「あの人はひどい人だから早く別れなさい」と言われてもなかなか別れられませんが、
何倍も魅力的な人が目の前に現れたら、別れることが簡単にできることでしょう。
真我とは、何ものとも比較の対象にならないくらい価値のあるものなのですが、
人はその価値を自分が知っているものと比較するしか判断する術を知りません。

ですから、他のものと比較させるしかないのです。
現代人が抱えているもう一つの問題は、現代人は味覚そのものが麻痺してしまっている可能性があるということです。
まずいものに舌が慣らされてしまっているのです。
まずいものでさえも美味しいものだと洗脳されている場合があるのです。
その洗脳をどのように解くか、その流れをどう立ち切るかということが、これからの私たちの課題でもあるのです。

例えば、麻薬に溺れている人に「麻薬よりも良いものがあるのだよ」と言っても、それだけでは理解できません。
本来、酒や麻薬は体に良いわけがないのですが、その味に慣れてしまっていて、自然の感覚が麻痺してしまっているのです。
そうなると、いくらもっと素晴らしい味があると言ってもなかなかわからないのです。
その自分の味覚を基準にしてしか考えないからです。

強烈に宗教団体に洗脳されている人も同じです。
そういう人には、ちょっとやそっと話をしても、絶対に洗脳は解けません。
「ここでこう言えば、相手はああ言うから」というように教え込まれていますから、何を言ってもダメなのです。
完全に洗脳を解くためには、その団体から何日間か遊離させて、そのために徹底的に取り組むしかありません。
そこで今まで植え付けられた価値観を壊していくしかないのです。

このページの先頭へ