時空間は存在しない

時空間は存在しない時空間とは、人間の意識が造り出したものであって、それは実在のものではありません。
実在こそが本来の姿ですが、実在は人間が造りあげたものではありません。

空間という言葉には、文字通り「門」という枠があります。
枠を取ってしまうと、空間はなくなります。
門によって内と外とが分けられているから空間ができるのです。

時間という言葉も同様で、枠を取ったら時間はなくなります。
「今日と昨日」というように刻んでいるから時間ができるのです。
枠がなくなれば、時もなくなります。

人間がその枠を造ったに過ぎないのです。
ですから、時空間は、人間の造り出した産物なのです。
私たちはこの部屋を一つの空間とみなしていますが、壁を通り越したら空間ではなくなります。
家で空間を造っているだけで、家の外に空間はありません。
それと同じく、どこに行っても空間と言うものはないのです。

時間も同じです。
今と言う全く動かない瞬間を見た時には、時間は存在しません。
動かない世界ですから、そこには時間はあり得ません。
さらには、一秒を百分の一、一万分の一、一億分の一、一兆分の一…というように縮めていくと、もう時間はなくなってしまいます。

そのように捉えると、もうそこには時間も空間も存在しません。
本当の今とは宇宙のこと、神のこと、そして真我のことを言います。
過去と未来は、私たちの肉体が存在して初めて存在するものです。
宇宙空間には過去も未来も存在しないのです。
産まれたばかりの赤ちゃんには、時間・空間という概念はありません。
大人になるに従って、時間的、空間的な認識が強くなっていきます。

時空間の概念は一種のトラウマを産みます。
時空間の中で様々な体験を積むに従って、次第に思い込みが強くなっていくのです。
時間が経てば経つほど、そのことに囚われてしまい、その固定観念によって自らを縛ってしまうのです。
同じような体験を何度も繰り返すと、やがてそれは一つの固定化した観念になっていきます。

最初は(違う)と思っていても、何回も言い続けられると、
(そうかな…)と思い、そのうち(そうだ)と思うようになり、やがて「絶対そうだ!」と断言して言い切ることになります。
それはそれだけ反復によって囚われが強くなるということです。
反復が多いほど、また時間が長ければ長いほどそれに対する思い込みが強くなるのです。
10回、100回と同じことを聞いたら、まさしく洗脳された状態になります。
「あなたは病気だ」と何回も言われたら、本当にそう思い込んでしまい、やがては完全に病気になってしまいます。

人間は時間とともに時間的、空間的な概念が強くなってきます。
幼児の頃には、時間・空間の概念があまりありません。
大人になっても時間・空間の概念がない人が天才になる可能性があるのです。
そういう人には「自分はこんな人間だ」という枠がありません。
枠がないがゆえに独創性が出てきます。
今まで教わったことを基にして物事を判断するのではなく、常識を越えた独自の発想をすることができます。
ですから、天才になれるのです。

赤ちゃんは、お母さんのお乳をもらう時に、「そろそろ12時だからおっぱいちょうだい」とは言いません。
また物心がつく前なら、隣の家に連れて行って知らない人に抱かれても泣きません。
しかし、少し物心がついてくると、隣の家に連れて行ったり、知らない人に抱かれると泣くようになります。
それは、成長とともに、空間の概念が芽生えてくるからです。
時空間という概念は、全て人間が生み出したものです。

例えば私たちは、自分の居場所について、「今自分の部屋の中にいる」というように個体的な捉え方をしてしまいます。
しかし同時に、「宇宙にいる」と捉えることもできるのです。
本来「自分の部屋」と「その外の世界」とを隔てるものなど何もないのです。
人間が全てにおいて枠を造ってしまうがために、空間が生み出されたのです。
時間・空間のみならず、そこから生まれた物質も心も全て人間が造り出したものなのです。
時間空間は私たちが造り出したものですから、それは全て幻なのです。
時空間が幻ですから、この世に存在するものは全て幻なのです。
時空間は、人間が脳の中で限定した概念に過ぎないのです。
脳の中で造ったものですから、全ては夢、幻なのです。
生命を肉体として捉えると、時間が存在します。
しかし、時間は幻ですから、その幻の中に存在する自分は、幻の自分、偽我に他ならないのです。

真我だけが真実の自分です。
本当の自分、神なる自分を自分と捉えたら、
時間が存在しませんから、命が滅びるということもあり得ません。
神の世界には時間は存在しないのです。
真我である永遠の命には始まりも終わりも、時間も空間もないのです。

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