親鸞上人は、
「自ら然らしむるように、真理としてそうなるがままに作為を捨てて生きる絶対肯定のあり方が大切だ」と言っています。
「絶対肯定」とは仏を全面的に信頼し、仏に従って生きるという意味です。
言い方を代えれば、絶対肯定とは、宇宙の法則に沿うということでもあります。
人間の業の世界では、様々な問題が糸のように複雑に絡み合って、解こうと足掻いてみても一向に解けませんが、
真我を開けば、その瞬間にパラパラパラ…と自然に絡みが解けてしまうのです。
最良の道を仏が作ってくれるのです。
それが自然法爾です。
自然法爾することで、全部が自動的に解決する世界があるのです。
真我を開くことこそが自然法爾なのです。
自然法爾とは、全く一点の我もない世界です。
即身成仏を悟ることによって、自然法爾が働くのです。
仏を悟ることによって、仏が全ての物事を運んでくれるのです。
私たちの体は、例えば、食べ物を食べた時には、そのうちの必要なものを栄養分として消化吸収し、
不要なものを排出するというように、全て自動的に行ってくれています。
私たちの中で、神が自動的に働いてくれるのです。
ですから、余計な心配は何もいらないのです。
全部神が働いてくれるのだから、神に任せればいいのです。
問題に直面した時、人間が考える解決策は無限にあります。
それに対して神の解決策は一つしかありません。
しかし、それはいつでも最善で完璧な解決策なのです。
例えば、人間の一生も大体神が決めているのですが、
私たちがいろんな不安を持ったり、悩みを抱えたり、人に恨みを持ったりして、人生を早く終わらせてしまうことがあります。
しかし、完全に真我に目覚めたら、神が与えた寿命まで生きることができるのです。
では、例えば、シマウマが寿命を全うする前にライオンに食べられるというのはどういうことかと言うと、
それは死ぬことではありません。
生きることなのです。
なぜなら、シマウマの命がライオンの命に転化しただけだからです。
そのライオンが死んだら、今度はライオンの命が雑草の命に転化されます。
さらにその雑草をシマウマが食べたら、雑草の命がシマウマの命に転化されます。
ですから、動物が他の動物に食べられると言うのは、天寿をまっとうしていないということではありません。
命が転化されただけであって、それは生きていることです。
動物の場合は、自分の肉体の死をもって何かに活かしているわけです。