性善説と性悪説という二つの相反する考え方がありますが、
性善説とは、人間の奥には真我があるということを言っているのです。
それに対して、性悪説というのは、業の部分を指しているのです。
キリスト教で「人はみな罪人である」というのも、やはり業の部分のことを指しているのです。
「罪を憎んで人を憎まず」と言うのは、過去の業を憎んで真我は憎む必要がないということです。
罪人というのは、神の意に沿わないで行動する人のことを言います。
宇宙の法則に沿って生きれば、誰もが「神の子」になれるのです。
私たちは、脳で物事を考えることを一番にして生きてしまいますが、その脳自体を作ったのは誰なのかを考えてみる必要があるのです。
その観点から捉えて生きるようにすると、私たちは徐々に神の子に近づいて行くのです。
しかし、現代人の多くは、脳で考えたことを一番正しく、一番偉大なことだと思い込んでいます。
そういう人たちのことを罪人と言うのです。
そういう意味では、「人はみな罪人である」と言う言葉は真実でもあるのです。