私はラッパになろうと思っています。
自分を通して神を表現する人のことをラッパと言うのです。
もちろんラッパを吹くのは神です。
その意味で、私は自分のことを“神の操り人形”とも呼んでいます。
神そのままだと、人間には言葉として通じませんが、人間を通過してだと人間に伝えることができるのです。
しかも、同じ人間ですから、聞く人に合わせて変化自在に音色を変えることもできます。
お釈迦さんのように方便自在にできるのです。
時にはベートーベンを弾くかも知れないし、ジャズを奏でるかも知れません。
ラッパの役目の人は、過去にもたくさんいました。
ラッパの役目を果たすというのは、
具体的に言うと、人々に講話をしたり本を著したりということです。
過去の聖者と言われる人たちはみんなそのようにしてきました。
しかし、私の場合は、そこからさらに一歩進んでいるのです。
ラッパで終わるのなら、本と話だけで終わってしまいます。
私はラッパになる人を現実に作っているのです。
ラッパになるには、ラッパを吹く人の意志がわからなければなりません。
つまり、神の意志が本当にわからなければならないのです。
ラッパになるというのは、言い方を換えれば神に直接繋がるということです。
私は今、神に繋がる人を作っているのです。
真我を開いて行くと、例えどんな職業に就いていよう、みな神の役割を果たすようになります。
それは職業のことではありません。
それぞれが、神に与えられた自分の個性を遺憾なく発揮して、神の法則に則った動きをし始めるということです。
それが神の意志に沿うということです。
みなが自分の仕事を通じて神を顕現していくことになるのです。
みなが神に繋がって行くと、それぞれがより個性的になり、より才能を発揮するようになります。
そのことによって、全体も調和していくのです。
釈迦やキリストのような聖人たちは、一番高いアンテナを持っていて、宇宙の法則をチャネリングできたのです。
そして、それが言葉化されたのが仏典になり、聖書になったわけです。
しかし、私が証明しているのは、「あなたも釈迦、キリストと同じものを持っていますよ。あなたも天の声が聞こえますよ」という事実です。
天の声とは真我のことです。
私は神の命令通りに動いています。
ただ、まだ神の仕事を十分には果たしていませんから、まだ死ぬわけにはいきません。
何が何でも与えられた仕事をまっとうしてから死にたいと思っているのです。