キリスト教で言う“罪を憎んで人を憎まず”とは、
人が抱えている業は憎んでいるけれど、人間の本質は神ですから、その神は憎まないという意味です。
そのように人間の本質の方を直視することができるのです。
しかし、どれだけ真我に目覚めようとも、私たちは肉体を持った人間であることには変わりませんから、その制限された中で見るしかないのです。
私たちはみな本当は完全なる神なのですが、完全に神そのものとして日常生活を送ることは現実的には不可能に近いわけです。
それでも、神に限りなく近づいて行くことは可能なのです。
真我を開くことによって、より高い次元に上がり神に近づくことができます。
どこまで行っても神に近づいて行く過程を歩んでいるのです。
ゴールというものはありません。
人間の観念にはゴールや過程といったものがありますが、
宇宙から見たら、全てが宇宙そのものですからゴールも過程もないのです。
しかし、敢えてゴールというならば、それは神そのものであると言えます。
今私は事務所にいます。
しかし、同時に「八重洲にいる」とも言えます。
また「東京にいる」とも言えます。
あるいは「日本にいる」、さらには、「地球にいる」とも、そして「宇宙にいる」とも言えます。
では一体、どこにいると言うのが一番正しいかと言うと、それは「宇宙にいる」という言い方が一番正しいのです。
なぜならば、八重洲とか日本というのは、私たちが境界線を勝手に引いて分けたものに過ぎないからです。
本当は宇宙には境界線などありません。
宇宙は一つなのです。
私たちはその宇宙にいるのです。
そして、私たちは宇宙そのものでもあるのです。
私たちは、最初から宇宙の法則に沿って生きるのが良いのでしょうか、それとも段々宇宙に近づいていくのが良いのでしょうか?
正確に言うなら、近づいて行くと言うのは正しくないのです。
なぜなら、私たちはもともと宇宙にいるし宇宙そのものだからです。
結論が先なのです。
自分も宇宙そのものならば、宇宙の法則に沿うも沿わないもないではないか、という疑問が出て来るかも知れません。
しかし、私たちは自らの意志で宇宙の法則に逆らう自由も与えられているのです。
実際には、私たちは川の流れに逆らって上流に向かって船を漕ぐようなこともしているのです。
川の流れは宇宙の法則です。
川の流れに沿うか逆らうかは私たちの意志にかかっています。
逆らって漕いでいれば、やがては体が疲れ果ててしまいます。
それが、不調和になったり病気になったりするということです。
これが宇宙の法則に逆らうと言うことです。