あるがままに生きることの本当の意味とは2014/10/08

真我を開くと、宇宙の法則という川の流れに乗ることができますが、
何もしないで川の流れに身を任せればいいというわけではありません。
大きな流れの中でも、方向を定めることや、軌道修正をすることは私たち自身の意志にかかっています。

私たちは自分という船の櫂だけは持つ必要があるのです。
ただ流れに身を任せているだけだと、船は岸にぶつかってしまうかもしれませんし、荒波にもまれるかもしれません。
櫂というのは自分の意志のことですが、しっかりと自らの手で握り、岸にぶつかりそうになったらその櫂をコントロールする必要があるのです。

岸にぶつかるというのは、ほとんどが人間関係のトラブルのことです。
あなたが、いくら愛を持って接したとしても、相手からは強い妬みや恨みの心が返ってくるかもしれません。
そのときに、自分の意志で相手の想念に巻き込まれないようにしなければ、その波動に巻き込まれてしまいます。
もし、まだ今の自分のレベルでは巻き込まれてしまうと思ったら、
臨機応変に「できるだけそういう人には近づかないようにしよう」と決め、コントロールすることも大事なのです。

「あるがままに」という言葉があります。
その言葉通りに解釈して、何もしないでただ環境に流されて生きてしまう人がいますが、
そういう人は、結局周りの言葉に振り回されてしまいます。
「あるがまま」とは、「真我に目覚めた上で湧き上がる心のまま」でなければなりません。
本当の自分である真我に目覚めていなければ、「あるがまま」で生きていくことはできないのです。
それは単なる無秩序になってしまいます。

本当の「あるがまま」は、神の秩序に沿うということなのです。
「これからどこに行こうか?」と考えるのではなく、宇宙の法則に沿ってどこに行くべきなのかを発見し、進んでいくのです。
川の流れる先は、上空から見たら一瞬にして分かります。
川の目的地は最初から決まっているのです。

私たちの人生も、川の流れと同じように最初から行きつく先は決まっています。
ただ、宇宙の法則が川と違う所は、私たち人間には無限に選択の余地が与えられていて、どこに行くこともできるということです。
しかし、神に目覚めたら、その人の向かう道は一つになります。
人間は道が無限にあると迷いますが、一つしかないと迷いません。
私たちの心がいつも迷っているのは神に目覚めていないからです。
自分の行くべき道が見つかることを悟りと言います。

本当の自分を見つけて、自分の目的地に向かって行く人は迷いから脱却できるのです。

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