本日は、佐藤康行66回目の誕生日です。

スタッフからの連絡となります。

先日の質問、「本日は、いったい何の日なのか?」

その答えは、佐藤康行66歳の誕生日でした。

佐藤先生、お誕生日、おめでとうございます!
そして、本当に生まれてきてくれて、ありがとうございます。

日本全国、そして海外から、お誕生日のお祝いの手紙、メール、そしてプレゼント等をいただきました。

本当にありがとうございます。

お誕生日にちなんで、本日は、佐藤康行の生誕からのヒストリーをお伝えしたいと思います。

「捨てる生き方」を実践をしてきた佐藤康行のヒストリー

1951年3月7日に北海道美唄(びばい)という炭鉱の町で、4人兄弟姉妹の末っ子として誕生しました。

北海道美唄 お祭りにて(5歳くらい)

父親はずいぶん長い間、戦争に行っていたので、大変貧乏な家に育ちました。木造の相当古い家で、私は両親に「恥ずかしいから、こんなぼろ屋に友達を連れて来れない」と言ったことがありました。

それからの両親は、朝の3時、4時に起きて、一生懸命頑張って働いて、新しい家を建ててくれました。

大人になってそのことを父親に話したら、「実はおまえの『恥ずかしくて友達を連れて来れない』という、あの一言で奮起したんだ」と言っていました。

しかし、家を建てても相変わらず貧乏です。

小学生だった私の小遣いは、1日5円でした。毎日、5円玉を1個、湯沸かし器の上に置いてもらっていました。5円だと、当時の貨幣価値では、あめ玉1個買ったらおしまいに近い状態です。

私はその辺から拾ったものや、小遣いをためて買ったものでくじ引きを勝手に作り、200円ぐらい儲けたことがありました。この頃から商売というものを経験していたのかもしれません。

兄弟姉妹、近所の人皆に可愛がられていました。

しかし、突然、14歳で母が脳卒中で他界。
当時の佐藤からしたら不運としか思えない出来事でしたが、今では、「これでよかった」という出来事となりました。

14歳に母を亡くし、中学卒業後、北海道から単身上京する。(15歳)

その頃から独立心が芽生え、中学卒業後、北海道から単身上京。
これが最初の捨てる生き方でした。

とにかく働かなくてはと、大手メーカーの社員食堂で朝から晩まで400人分の皿洗い。はじめは、正直、「なんで俺だけが・・・」と大変な日々を送っていました。

社員食堂での皿洗い時代。(16歳)将来、お店を持ちたいと思うようになる。

しかし、あることがきっかけで、仕事が楽しくなりました。

いったい、1分間で何皿洗えるかに挑戦したのです。

記録はどんどん伸びて仕事は、はかどり楽しくなっていきました。目の前のこと、今やっている仕事で一流になればいいんだ!ということに気づきました。

その時、嫌々やっていた仕事を捨てたのでした。

やがて、定時制の高校に通いながら、コックの見習いに入ります。
しかし、料理人の世界はとても厳しく、皿が飛んできたり、タバスコを飲まされたりと色々な大変な日々も送りました。

「いつか絶対に、レストランチェーンの経営者になってお金持ちになるぞ!」という夢を持ちました。
その夢に向かって突き進むのでした。

料理人としての腕前は、かなりのものになりましたが、資金が必要。
このままだと自分の店なんて一生持てない。

ここで、自分の夢のため、資金を貯めるために、料理人の職をきっぱり捨てました。

当時は、19歳でした。
成功哲学や、自己啓発の本を片っ端から読み、成功するには、「セールスマンになるしかない!」と確信しました。

早速、化粧品の訪問販売の会社に就職。

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はじめは、「インターホンを押すのも嫌だな~、恥ずかしいよ」という気持ちでうまくいきませんでした。
会社の先輩からは、「お前、向いてないよ。辞めれば」と言われる始末。

しかし、それがきっかけで、一念発起!

その販売していた粧品のターゲット層は、30代~40代の女性でしたが、なんとお客様第一号は、73歳のおばあちゃんでした。

先入観を捨てることも大事だと教わりました。

その後、順調に化粧品セールスでトップになりましたが、実入りが少ないので宝石のセールスに転職しました。
23歳ごろでした

ここでもトップセールスとなり、なんと3年で1000万円を貯めることになります。
30年前の1000万円なのでかなりの大金です。

このまま続けば、大金持ちになれるところでしたが、最初の夢を追うために、悩んだ末に、宝石の仕事を辞めました。

ここでは、自分の夢のために、目先のお金を捨てました。

続きは、こちらからご覧ください。

⇒ マンガ佐藤康行物語「捨てる生き方を実践しながら夢をかなえ転職を得た一人の男の物語」詳細はこちら

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