「認識と実相」〜2〜

 

※今から10年ほど前のスタッフと学長との質疑応答より

 

(昨日の続き)

 

学長:変化する認識の世界ではない。認識は常に変化する。物ごとのとらえ方、見方によって全部変化していくのだ。しかし、実相は不変。変わらない。私たちがどうとらえようが変わることはないのだ。

 

その実相という実在をとらえて、そこからその認識をみる。すると、明らかに自分はどのように認識していたか、その変化、成長がわかってくる。それは、動かないものから動くものを見たときに、変化するものがわかるのだ。動くものの中から見たら、その動いていることがわからない。

 

例えば、電車に乗って、その中にいたら自分が動いているのがわからない。しかし、動かない大地から見たら、電車が動いているのがわかる。動かない不変のものから見た時に、変化するものが見えてくるのだ。その絶対動かないものを「実相」というのだ。

 

動くものが「認識」。私たちの認識は、どこまでいっても変化する。常に変化している。一瞬も休むことなく変化している。だから、変化するものを自分と思ったら、常に安定しない。今、こうやっていたとしても、常に変化している。

 

皮膚も、少しずつでも入れ替わっている。食べたものも消化吸収している。髪の毛も伸びている。全てが常に変化している。自分の心もいつも変化する。だから、いつも不安定の中にあるのだ。なおかつ、他人の心も常に変化する。ゆえに、さらに不安定になる。

 

その認識する自分を自分と思ったら、常に不安なのだ。そして、相対的に見えるから人と比べる。人間の意識、記憶、心というものは、自分の手で位置を変えることはできない。だから、より不安定になるのだ。

 

天まで昇るエレベーターで上がっていったら、その高さによって認識が変わる。高いところから自分の生まれた故郷を見た時に、違う気持ちになり認識は変わる。しかしそれは脳でとらえた認識に過ぎない。「これはこうだ」と決めた時、それは固定化する。

 

認識の固定化。それは実相の固定化にあらず。認識の固定化なのである。認識の固定化は常に変わる。常に変わるゆえに、安定しないのだ。