※今から10年ほど前のスタッフと学長の質疑応答より
学長: 存在だけが無限。人間は「在」の世界にある。最初から「在」の世界。神の世界にある。有限の本質は「在」。すべてが神。なにもかもが宇宙。無限は有限。有限は無限。
本当の無限は表現することはできない。海も川も地球の一部とすれば、海にいても川にいても、地球にいるということ。最初からそこにいるのだ。向きをどっちに向けるか、ただそれだけなのである。どっちを向くかは、自分でできることである。
流転。この世の流れゆく姿はどこまでいっても有限である。それが結論であり出発なのだ。私たちがとらえる愛も、私たちがとらえる物質もすべて壊れゆく姿。自壊していくのだ。
無限の愛は五感でとらえられない。有限の愛もとらえられる限界がある。父母先祖の愛もとらえるには限界がある。どこまでいっても有限なのである。五感でとらえるということは、どこまでいっても自分が主体。
ひとつのところに留まらない。常に変化していく姿。今、まさに無常の世界。一瞬たりとも「今」という姿がない。
真我の「在」はとらえられないものなのだ。「光在」とは、本当の無限。「光在」とは絶対に変わらないもの。神の無限は動かないもの。変化しない無限がわかったときに有限がわかってくるのだ。変化するものはすべて有限である。
有限の無限は、あくまでも有限なのである。真我は無限。在って在るもの。それは「光在」。真我は変化しない。神だから変化することはない。
真我は一切変わらない。神は変わるわけがない。不変。永遠。無限。ただ「光在」。人間は本能的に無限の愛を知っている。脳ではとらえられないものを、人間は本能的に知っているのだ。
渡り鳥が行くべきところを知っているように、魚が行くべき場所を知っているように、誰に教えられなくても、もともと知っている。
「在」の愛はとらえられない。だから前提と私は言っているのだ。自分が100%受け止めているものと神の100%とは違う。我々は代理のものを追いかけているのだ。
宗教は神仏という代理を追いかけているのである。変化するもの、それは無常。その奥は変化しないもの。その奥は仏であり神そのものである。


