※学長セミナーの講話より
学長:下界ではいろんなことで喜んだり、悩んだり、苦しんだりして、生きてる世界を見渡すことができます。その同じ位地で空を見上げると、大宇宙が広がっています。
その大宇宙が一つの法則として捉えるなら、宇宙の法則、神の法則として捉えるなら、下界を見たときに人間界が、人間が脳で考えたもので生活をしています。
下を見たり、上を見たり、両方することができます。これを私は「極地の認識」と言ってるんです。極地の認識だけど、本当の実相世界ではない。
本当の実相世界、真我の世界から捉えたときに、その下界の世界を、心の世界を「横の法則」と言っています。宇宙の法則を「縦の法則」と言っています。
上を見て縦を見、そして下を見、横を見る。もっと正しく言うなら、その頂上の先の大宇宙の存在そのものを、私は真我として捉えてます。頂上が真我じゃないんです、もっと正しく言うなら。天の世界が真我だと。
ですから、その頂上の世界にポンと抜けた瞬間に、この下界の世界がパタパタパタッと自動的に全て解決していく。何も手をつけなくていい。いや、手を付けることが邪魔なんです。
仏教では、それをある程度は言っています。実際にそれを表せるかどうかは別として。それは「自然法爾(じねんほうに) 」と言います。
自然って書いて。自然に法に従って。パタパタッと解決していくということです。解決ってのは、私たちがこの脳で考える解決ではありません。思いもよらない。
もしかしたら、何かを失うような感じになるかもしれません。それも解決です。そこから捉えたときに、今まで私たちが「このようになったらいい、あのようになったらいい」という世界でないものが展開される。可能性でなくて、そうなるでしょう。
真我心経の中に、愛には「執着の愛」と「放つ愛」というのがあると。そういうものが自由自在に使いこなせるようになれば。物事を捉えるときに、物事を見て判断するでしょう?
それを仏教では「観自在」って、物事の捉え方は、いろんな捉え方、「自由自在にできるんですよ」っていうのを観自在って。うちでやってる完璧ポストも、ある意味じゃ観自在を広げていく世界です。
どんな出来事も「これでよかった」から出発する。物事をそのように認めたら、そのように判断し、そのように展開していきます。でも、それは真我の観自在とは違います。
例えば、山の頂上からいろいろ見たときに、こっちの方も行けるし、 あっちも行けるし、 どっちも行けるし、 八方全てを見渡して物事を判断する。
こっちの道が駄目だったら、こっちの道が行けるって、どうにでも捉える。それが観自在ですけど、神自在、真我自在は、それではないわけです。
真我から見たときに、高いも低いもないわけです。その場所に、すでに目的にいるわけです。だから、どこに行く必要もないんです。最もよき所に立っている。
これが神自在です。そこが最も良き所。
どこにも行かなくていい。そこが最高の位置。最初から究極の目的を達してる世界です。だから、何かをやろうとすればするほど、やろうとすればするほど反対の方向に行っちゃう。
全て最初から与えられている。


