最近、更に、焦点が合ってきたと感じています。
私がアクセル踏むということは、飛び回るとかそういうことではなく、焦点を合わせていくということです。
ですから、その焦点がどんどん合ってくると、最後は、その急所をツンっとやっただけで、周りがバタバタバターっと変わっていきます。
更に焦点が合ってくると、世界が一変していきます。
力のいらない世界なのです。
私は、昔から、力のいらいない世界であるというふうに捉えて、仮説は立てていました。
そして、今まで23年以上やってきました。
やっぱりその通りだと、その確信は深まるばかりです。
焦点を合わせていく。焦点を合わせることが最も大事だという、仮説を立てて、もう23年前からこの真我だけを追究しています。
もちろん、真我こそ焦点なわけです。
その真我に焦点を合わせていくと、本当に世界は変わる。
焦点を合わせれば合わせるほど。
今は本当にその通りだと、ただただ確信が強くなるばかりです。
一個人でも同じです。全世界も同じです。
一個人も、全世界も、全く同じです。
なぜならば、その1人の人が70億人いるだけなのですから。
だから、一人も、全世界も、同じだという、これも仮説としてやってきましたが、やはりその通りだと日々感じています。
ど真ん中の、ど真ん中の、ど真ん中を狙っていく。
そのど真ん中の、ど真ん中の、ど真ん中をやっていく時に、ど真ん中じゃない、周りの端のもので出来上がったものは崩れていきます。
仮の姿は、真実の姿が現れた時に崩れていきます。
崩れていくと同時に、新しいものが立ち上がります。
崩れたものを見た時に、私たちが敗北感を感じるのか。
それとも、新しく立ち上がるものを見て、新しい夜明けを感じるのか。
どちらを見るのか、ということなのです。
昆虫には、脱皮というものがありますよね。
脱皮とは、今まで被っていた殻を破って、新しく脱皮して、蝶々が舞い上がっていく。
その脱皮の殻を見るのか、それとも、脱皮をして舞い上がってる自分を、自分と見るのか。
その残りかすの殻を見て、それを自分だと思ったら全てを失ったように見えます。
私たち人間は、特に、脳で考え、何かを固定化したがる癖があります。
これはこうだと固定化する。あの人はこんな人間だと固定化する。
私はこんな人間だと固定化する。あの出来事はこんな出来事だという固定化してしまう。
例えば、写真をパチッと撮ったら、その瞬間を固定化します。
その瞬間の図だけが、ずっと固定化されるわけです。
私たちのこの脳でも、そのように、物事を、あの出来事はこうだと、
パシャリと固定化してしまいます。
そうすると、例えば、蝶々が脱皮をする前の皮を固定化して、これを自分だと思った瞬間、
もう全てに絶望してしまう可能性があるわけです。
もう新しくそこから脱皮して舞い上がっている自分を、自分として捉えないで、脱ぎ去った皮を自分だと思い込んでしまう。
どちらを見るのかということです。
どちらを自分として捉えるのかによって、その認識したものの方向に向かっていきます。
私たちの認識能力です。人生は、物事の認識です。どのように物事を捉えるのかということです。
真我に目覚めたら、人生も、運命も、根幹からすばらしいものになります。