罪人であることを自覚した人は、実は天国に近いのです。
自覚しない人は、天国に遠いのです。
ましてや、「私は立派だ」と自惚れている人は、最も天国から離れているのです。
こういう人は、カルマを背負っていることに気づいていないからです。
聖書には、「心の貧しい人は幸いである」あるいは、「悲しんでいる人は幸いである」とあります。
「心の貧しい人」とは、自分に自惚れることがない人のことです。
「悲しんでいる人」とは、間違っていることをわかっている人のことです。
悪いことをして、「悪いことをしてしまった…」と反省して落ちこんでいる人のことです。
逆に、「自分は悪いことなんかしていない」と思って悪いことをしている人間は一番困ります。
いくらでも同じことを繰り返すからです。
親鸞上人も同様のことを「善人尚もて往生す、況や悪人を哉」という表現で諭しています。
ここで言う善人とはカルマの少ない人、悪人とはカルマの多い人のことを指しています。
「カルマの少ない人でさえ救われるのに、ましてやカルマの多い人が救われないわけがない」という意味です。
つまり、カルマの多い人は必死に救いを求めますから、
カルマの少ない「自分はそこそこ幸せだ」などと思っている人よりも、はるかに救いやすいということなのです。
キリストと親鸞は非常に似ているところがあるのです。
また、ブッダはこんな例え話をしています。
ここに焼け火鉢があったとして、それが熱いことをわかっていて触った人と、わからないで触った人とではどちらが被害が大きいでしょうか?
わからないで触った人の方が大やけどをする可能性が高いのです。
これは、「私は罪がないまともな人間だ」と思っている人の方が、救いずらいという意味です。
「私にはこんな罪があるんだ」ということをわかっている人は、それほど大やけどはしなくて済むのです。