限りなく神に近づく~無限の愛にあふれた大調和の心2013/12/08

真我とは、神の心、仏の心であり、無限の愛にあふれた大調和の心です。
真我を開いて、神の心になった時には、目の前に見えるすべての人を愛することができるのです。
何十年も人間関係で悩み、恨み辛みの人生を送ってきた人でさえ、
真我を開くことで最初から敵などいないのだという心で、すべての人と接することができるようになります。

本来、キリスト教でいう「罪を憎んで人を憎まず」とは、
人が抱えている業(=罪)は憎んでも、人間の本質は神であり、その神は憎まないという意味です。
しかし、大切なことがあります。
それは、私たちが肉体を持っているという事実です。

真我は永遠不滅のものですが、人間の肉体には寿命があります。
ですから、魂は死ぬことがありませんが、肉体は必ず死ぬときがやってくるのです。
ですから、寿命という制限された一定の時間の中で、物事を捉えていくことが人間の使命なのです。
私たちの本当の姿は完全なる神ですが、完全に神そのものとして日常生活を維持して送ることは現実的には、なかなか難しいのです。
「それならば、真我を開いて神なる境地を体感することは、結局意味がないのではないか」このような疑問があるかもしれません。
しかし、真我を開くことはあなたの人生において大きな意味があります。
確かに完全なる神そのものとして、日常生活を維持して送ることは難しいかもしれませんが、神の意識に限りなく近づいていくことは可能なのです。
真我を開くことによって、あなたの次元は今までよりもはるかに高い次元に上がります。
心が確実に変わっていますから、すべての姿が変わってみえてきます。
そのときに大切なことは、体感した神の境地を、現実生活に少しでも生かすと決意することです。
そうすることで限りなく神に近づくことができます。
どこまでも神に近づいていく過程を歩んでいるのです。

真我は無限なのです。
ですから、あなたがどこまでも真我を開き続けることもできるのです。
そして真我は、愛のエネルギーですから、開けば開くほど幸せになることができます。
もちろん、人間的にも成長します。
あなたは、どれだけ幸せになっても良いのです。
誰も、あなたの幸せを制限することはできないのです。

神にはゴールがありません。
人間の観念にはゴールや過程がありますが、宇宙から見るとすべてが宇宙そのものですから、ゴールも過程もないのです。
しかし、人間の観念から敢えてゴールというならば、それは神そのものになることといえます。
また、真我を開いてからが本当の出発なのです。
「本当の自分」を探し続けて、死ぬ間際にそれがわかったとしても、人生を楽しむことはできません。
私たちは、肉体をもっているが故に寿命が限られています。
この事実だけは、誰も変えることができません。
ですから、あなたという肉体を持った人生はたった一度きりです。

たった一度の人生であるからこそ、本当に素晴らしく楽しく有意義なものとして、
毎日を大切にして、一分一秒でも無駄にするべきではないのです。

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