※受講生と学長の質疑応答より
質問者:問題がないと捉えられる自分の視点になったということは、実相という学長が言ってるところの境地に近づいているということでしょうか。
学長:「近づいてる」というよりも、もうすでに自分だということです。「近づいてる」っていうのも言葉としてはちょっと違う。自分は真我そのもの、実相そのものですから。あとはそこに夢から覚めるように目が覚めればいいだけ。
目が覚めて自覚すればいいだけなわけです。「近づく」っていう言葉も違います。そうすると、近づこうというその言葉自体が遠ざけているわけです。実はそのものなのに。
例えばもうちょっと分かりやすく言うと、「女に近づいてる」っていうのは、遠ざかってるでしょう? それならちょっと分かるでしょう? 「私、女に近づいてきた」ったら、遠ざかってるじゃないですか。そういう感じです。
質問者:人間が生まれてもなければ、死んでもなくて、何も起こってなくて、ただ在るというところをまだ垣間見てないんです。
突き詰めると、ないから自由自在にできるんだという話もあって、そこまでないというふうに、自覚がなくても動く世界があるから動くんだということでしょうか。
学長:要するに、問題なし、人間は、在るっていうのは、在るっていうのは神だけが在るという前提です。神だけが在る。神しかないっていう、どんな現象面が起ころうが、何があろうが、神しかないという大前提で相手を扱うんです。
そして、そのようにして物事を見る。そこから一歩も下がらないでやっていった時に、変化してる世界があるわけ。
だって、そのものだから、そのものとして扱う。向こうの問題でもないし、全て自分だけなわけ。自分一 人の問題。だから、相手に何を望むこともないし、何をやってほしいこともない。そのままでいいわけです。
なぜなら、問題ないのだから、真ん丸なのだから、完璧なのだから。そのまんまでいいわけ。
でも、そのまんまには、なかなか人間ですから、見えませんよね。だから大前提って言葉を使うんです。神としての大前提として扱う。
大前提として扱った時に、だんだん、だんだんそういうものが現れてくるわけ。そして、それをやってる時に、まさに全てそれが当たり前になった時に、神対神になってくるわけです。
そうしたら、カルマが消えていき、そうしたら現象面に現れた問題が自動的に解決していくのです。


