自分の取り扱い説明書

 

※学長の講話より

 

学長:例えば、五感で感じられない人は、五感で見れる人を、ここにこういうものがあるんだと。でも、全て五感がないから、あるということが分からない。でも、あるという前提に立ったとしたら、違ってくるはずです。

 

自分の感覚器官だけで捉えていくんじゃなくて、感覚器官では捉えないけど、あるという前提として捉えていったときに、接し方や何かが違ってくる。怪我をしないで済むかもしれない。

 

見えないものは、感じられないものは、捉えきれないものは、「前提」という言葉を、私はずっと大事にしてきました。

自分で捉えきれないものを「ある」と言い切った時に、間違った「ある」になっちゃう可能性がある、この人間。

ですから「真我=神」と言っていい。「真我=仏そのもの」と言ってもいい。私たちのこの五感で捉えたときに、私もみなさんも普通の人間にしか見えません。

 

しかし、この宇宙の真理そのもの、真我そのもの、神そのものという前提で捉えていったときに、扱い方が変わってきます。全て人間が作った物には取扱説明書っていうのがあります。

でも、私たち人間がオギャッて生まれて、今まで生きてこられて取扱説明書、それは、それぞれのいろんな人が考え出したもので取扱説明書がある。

その取扱説明書を誰が書くのか、誰が決めるのかとして捉えたときに、新しい機能とか新しい発見、新しい使い方は、当然それを最初に考えた人、「このような性能にしよう、このように使おう」といったときに、そのものを考え作り出した人が、その取扱説明書を書くと一番正しく使えます。

 

私たちを創った、人とは言えないでしょうけど、何か。その人が本当は取扱説明書を発行すべきで、それを自分も含めて、当然自分はそれぞれみなさんも人間ですから、自分の取扱説明書、そして自分の周りにいる人の取扱説明書があってしかるべきだと。

 

故障したとき、どのように修正するのかとか。それをずうっと長持ちさせるには、どのようにするのかとか、より効果的に、より快適に。私たちは「快適」と言ったら、幸せと言ってもいいでしょう。

 

より幸せに取り扱うには、どのようにしたらいいのでしょうか。

命の根源からやっていくということです。命の根源。極地の認識。実相の世界、真我実相の世界、そして、この現象の世界。極地の認識と私が捉えているのを、なるべく分かりやすくみなさんに理解していただきます。

 

言うならば、高い山があるとするでしょう? 普通、過去私たちは、低い山のふもとの方も頂上の方も中腹も、実は私たちの中にあるわけ、全部どちらも。その頂上が真我だと思ってください。

 

それは最初から私たちの中に存在しているわけ。過去の偉い人たちは、その頂上を目指して、悟りというか、悟りを目指して。悟るというのは、シンプルに言うと「分かる」ということです。

 

「分かる」ってのは、私という存在はどういう存在なのか。どのように生きているか、分かる、悟る。その頂上にまで上がる年数。何年かかるのか。10 年なのか、30 年なのか、100 年なのか。100 年ぐらいになると、ほとんど人間いなくなります。

 

でも、私たちの中にその頂上が存在しているなら、頂上から出発してもいいんじゃないかというのが佐藤康行の究極の合理性です。頂上から出発する。